9月11日は狭山池博物館を目指して出かけたものの、その途中に出会う南海電車が面白すぎてずいぶん時間を使ってしまいましたが、ようやく狭山池までやってきました。
この広々とした狭山池は、遅くとも616年頃には築造されていた日本最古のダム式ため池です。
その狭山池の北端の外周には、周囲の緑に比べると何とも無機質な姿を見せる大阪府立狭山池博物館があります。
堤の上からは大阪市内のビル群や北摂の山々まで望むことが出来ますが、その景色をぶった切るようなロケーションに驚きです。
博物館への誘導路に入ると、ドスンという感じで切り立った壁が現れ、その左右の壁面を水が流れています。
水が流れ込んだ先の水面は濃い緑に見えますが、これは壁面と共に藻類による水垢がこびりついたようで美観を損ねています。
少なくとも光触媒塗料を使って、閉館時間は水を流さないようにするとこういうことにはならない事例もあるので、なぜそのようにしなかったのかなぁ。
通路を「入口⇒」のサインに従って歩くと、その流れ落ちる水のカーテンのところを通ることになります。
少し風があると通路側に水がパラパラと吹き込んできて、足元はぴしゃびしゃになっていて歩きにくいことこの上なしです。
この日は暑い日でしたが、水のカーテンからやってくる濃密な湿気で息がつまりそうでした。臭いもありました。
さて、通路を抜けて反対側までやってきましたが、まだ入口に辿りつきません。
この後、更に別のブースまで進み、らせん状の通路を歩いて登りようやく小さな入口へ到着しました。
狭山池博物館は、このようにバリアフリーにほど遠い建物であり、見た目も悪く、何だかなぁの安藤忠雄建築です。
奥山景布子 流転の中将 PHP文芸文庫/読了・・・・・・・幕末に新政府軍に対抗したのが一会桑といい、一橋、会津、そして桑名がそれに当たり、徳川慶喜、松平容保、では桑名はだれかというと、容保の実弟である松平定敬(さだあき)になります。この本はその定敬の物語です。定敬は徹底抗戦を唱え函館まで行って新政府軍に対抗したようで、敗れた後一時は上海まで逃げていますね。そういう気骨な最後の大名のひとりにまた出会いました。
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