旧土佐藩邸 土佐稲荷神社とマンモスアパート
先日、写真展にお越しいただいた奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の皆さんをご案内した土佐稲荷神社とマンモスアパートですが、ブログで素通りするにはもったいないくらい歴史的な価値がありますので、本日のネタとしてご紹介いたします。

今の西区、カツオ座橋の交差点から南西の区画の広く土佐藩邸がありました。土佐稲荷神社は、伏見稲荷神社から分祀されたのが創建のようです。その日の私のテキストから転載します。
長堀川畔の土佐藩蔵屋敷に古くから鎮座していた。天正年間の創建とも、明和7年(1770年)に伏見稲荷を勧請したものとも伝わる。享保2年(1717年)、藩主山内豊隆が社殿を造営して蔵屋敷の鎮守社とし、一般の参拝を許した。以来、山内家は参勤交代で大坂を通る際には必ず当社に参拝し、社殿の修繕は藩費で行われた。
明治初年、土佐藩は藩の借金を肩代わりする代わりに、所有する艦船などとともに蔵屋敷も岩崎弥太郎に譲り渡した。岩崎弥太郎は当地で事業を営み、三菱の発祥の地となる。境内のいたるところに三菱のマークがある。

その土佐稲荷神社の東側にあるのがマンモスアパートとして知られた昭和33年竣工の公団住宅です。これもその日のテキストから転載します。
今や隣接する高層マンションから見下ろされるような具合で、どこがマンモスやねん!と言われているかもしれませんね。
1958年(昭和33年)竣工の日本住宅公団による都市型高層住宅の第1号。日本住宅公団は、当時、将来的に住宅の高層化が必要とされると考え、これから建設が進むであろう高層住宅の試金石として、晴海団地高層アパートとともにこの西長堀アパートを建設した。外壁には無数の小窓が整然と並び、オフィスビルを思わせる外観となっている。
初期の家賃は2DKで16,500円であり、当時の大卒初任給の1.4倍であった。この住宅には著名人の居住も多く、作家の司馬遼太郎や女優の森光子、当時プロ野球選手だった野村克也や作詞家の石浜恒夫などが居住していた。司馬遼太郎は土佐稲荷神社が眼下に見えるこのアパートで「龍馬が行く」を執筆した。
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