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西宮市大谷美術館で開催中のISHIUCHI MIYAKO写真展を見てきました。と言うか、たまたま無料で入れるシチュエーションだったので、散歩がてら行ったというだけですけれど。
展示の内容はメッセージ性があるだろうと思われる作品が多く、そういうのってなんだか、よくわかりませんでした。これで大人千円ってのはきついかも。このひと、有名な写真家らしいけど。
この美術館の愉しみは、広い庭園を巡回することです。よく見ると、昔の塔か建物の礎石、それもかなり立派なものがあったり、ブラシの木の花が咲いていたりと見るものが多いです。
水が流れる庭園を巡ります。また、その水の行く先は大きな池になっています。この池の向こうが美術館のエントランスとなっていて、そのロビーからの眺めもなかなかのものです。写真展よりも、庭園の眺めに癒された美術館訪問でした。
渡辺一郎 伊能忠敬の日本地図 河出文庫/読了・・・・・・・・・伊能忠敬の研究家の著者がその研究成果とともに、伊能忠敬の生涯などを紹介した一冊。近時にも、新しい伊能忠敬の地図が発見されるなど、いまだに新発見が相次いでいる伊能忠敬の地図、それも正本と呼ばれる一番の出来のものは明治に焼失しているらしく、写しや副本が主流とのこと。とはいうものの、佐倉市の伊能忠敬記念館所蔵の資料はまとめて国宝指定されるなど、なかなか興味は尽きません。コロナが収まったら、関東詣での機会に記念館を訪れてみたいものです。
これは摂津本山の字(あざ)別の地区図です。古い時代のものですが、特に南の地区にマス目があるのが分かります。これが条里制の区界の名残りです。
さらに古い地図で見てみましょう。山から下ったところから海辺の町が集中しているあたりまでマス目が残っているのがさらに読み取れます。
ただし、阪急電車から上の地域は、山が迫っているため、米作には適さず土地の利用方法が限られたのではないでしょうか。
律令国家は公地公民制に基づく班田収授法を実施しましたが、この時の土地制度が基盤目状に土地を区切った条里制です。一辺が一町、60歩、109mの単位になっています。
律令制によれば、東灘は摂津国菟原郡に属し葦原(本庄から芦屋南部)・賀美(かみ)(芦屋北部から本山周辺)・佐才(魚崎一帯)・住吉(住吉一帯)・覚美(かがみ)(御影一帯)の各郷に分けられたそうです。
神戸では、特に長田区から須磨区にかけての町割りに条里制の跡がみられることが知られています。近代的なすっきりとした街の様子も、振り返れば、古代の条里制の恩恵を受けているということですね。
さて、阪急よりも上の地域に迫る山は六甲山の端山でなり、尾根が突き出す複雑な地形となっています。古代からそういう場所には神が宿るという信仰がありました。
特にこの地域では、現在の保久良神社の境内に古代から祭祀場の跡が見られ、その分社として村々に手近な信仰の場として神社が次々に設けられていったのではないでしょうか。
それも耕作地に適していない場所として現在の神社の位置が定められたというのはいかがでしょうか。あるいは、既に古代の古墳があった場所が神社になったケースも考えられます。
さらに住宅街を西へ向かうと、鷺宮八幡神社がありました。広い境内には自動車も多く、神社としての機能よりも町の集会所もあって公共の場として使われているみたいです。ちょうど消防車がやってきて、なにか作業を始めました。
鷺宮八幡神社の社殿です。江戸時代前期には記録があるようで、鷺森(さぎのもり)⇒鷺宮(さぎのみや)⇒産宮(さんのみや)と通称が変わり、お産や夜泣きの神様として信仰されていた歴史がありました。
一方、明治14年にこの山の上にある保久良神社の御旅所として整備され、このように神輿台が置かれるようになりました。保久良神社までの道は今回はパスしました。またあらためて行ってみたいと思います。
かつてこの神社の境内にあった大欅の株です。平成29年10月22日に倒れたそうです。調べるとその日は台風21号の襲来を受けていました。
このように芦屋川から岡本駅までのひと駅の間に八幡神社が4社、稲荷神社が1社、他に今回は行かなかった古社の保久良神社、さらにこの鷺宮八幡神社の北東の山の上にも岡本八幡神社と、まさに神社ばかりが目立つ区間でした。
神社からの道を降りてくると、阪急岡本駅の東側の踏切に出ました。神社めぐりばかりではパッとしないので、阪急電車も撮影して今回の散歩を終えました。
森稲荷神社からさらに西へ歩き、少し坂を上ったところに中野八幡神社がありました。昼なお暗い社叢の階段を上がったところに拝殿がありました。このあたり、中野村の鎮守社で、古くは暦王2年(1339年)に大山崎八幡宮から勧請されたという記録もあるようです。
中野八幡宮からの景色も港や大阪湾、海の向こうの山々、和泉葛城山の方面でしょうか、なかなかの景色を見ることが出来ます。
このあたりはアップダウンの道が続きますが、中には欧風の家があったりと歩くうちに景色が次々に変わるので、とても面白い散歩道でした。
歩くうちに、住宅街の中に小路八幡神社がありました。ここはとても小さな神社で、社殿も簡素な建物でした。
この境内にも尼崎藩の領地内であることを示す碑が立っていました。神社にこのような境を示す碑があるということは、神社が地域を代表する場所として機能していたことを伝えているのではないでしょうか。
宮部みゆき 昨日がなければ明日もない 文春文庫/読了・・・・・・・・杉村三郎、私立探偵というものの、零細な仕事ばかりなのですが、たまにやってくるコミ板仕事を見事に解決していく手腕に魅せられます。読みながら、これは三面記事に食いついてしまう心理をがっちりつかまされてしまう作者の作戦にはめられているのではないかと気が付きました。しかし、こんなに深みにはまる作品であれば、またはまり込んでみたいものだと思いかえしました。ただただ、面白いですから。
芦屋川から歩いた5月15日、芦屋市から神戸市東灘区へ入ったところに、地図上では「稲荷神社」とだけある森稲荷神社へやってきました。とても広い神社です。ここはもともと付近の9か村の氏神でしたが、明治になってうち6か村が山の上のほうにある保久良神社の氏子になった経緯があるそうです。
急坂を上ったところに甲南女子大学があるので、この道はその通学路になっているのかな。こんな坂を毎日大変でしょうね。尤も、阪急岡本、JR摂津本山からの通学バスがあることはありますが、この坂の下にJR甲南山手駅が出来て徒歩でも便利になりました。
拝殿から赤い玉垣が連なり少し離れたところに塀に囲まれた本殿がありました。本殿と拝殿が離れたこういう形も珍しいですね。
本殿は平入りの桧皮葺の建物で、屋根が入り組んでいますが、権現造りに近い形でしょうか。とても厳かな(つまり高級な感じ)雰囲気を漂わせていました。これは一見の価値がありますよ。
境内の倉庫に瀟洒なおみこしがありました。大きな鈴がついていて、これを担ぐとキラキラしてにぎやかなことになりそうですね。
この神社の祭りと言うと、毎年GWのころにだんじりの宮入があるようです、この急坂を上っていくなんてすごいですね。 ⇒ ★
ちなみに、阪神間に住んでいる人には有名な赤鳥居があります。この交差点の名前も赤鳥居前だったかな。この赤鳥居がなんとこの稲荷神社の位置の鳥居だったとは。なんだかこれはすごい有名な神社だったんだと、改めて見直した次第でした。(赤鳥居の写真は借り物です)
芦屋川駅から歩き始めて、いきなり芦屋廃寺跡に出会いましたが、そこからさらに西へ歩くと家々の間にこんもりとした森がありました。そこに三条八幡神社がありました。
この八幡神社はこのあたり、旧三条村の氏神さんとして古来よりあがめられていたようです。三条という地名の由来として考えられるのは、実はこのあたりに残っている条里制の名残りという説もあり、これはまたの機会に紹介したいと思います。
その境内に「従是東尼崎領」の碑がありました。江戸時代、芦屋は尼崎藩領として三条村、津知村、芦屋村、打出村があったものが、明和6年(1769年)に芦屋村と打出村が天領になり、三条村、津知村は尼崎藩領として幕末に至っています。尼崎藩領は天領が各地に存在したため、このような所領を明示する碑が今も各所に残っています。
境内はきれいに掃き清められていました。毎日、この神社をお世話される方が居られるのでしょうね。この静寂を破るように、境内のそばを阪急電車が通過していきました。
吉川永青 闘鬼 斎藤一 集英社文庫/読了・・・・・・・・新選組の一員として幕末から明治、そして生きながらえ大正4年に亡くなった斉藤一の物語です。小説ですから史実に則った話ではないのですが、特に池田屋事件と伊東甲子太郎の御陵衛士との確執についてはページが割かれています。この作家は初めて読みましたが、節度を持った話の展開に好印象です。
散歩を兼ねた歴史探訪、5月15日は阪急武庫之荘駅から芦屋川へ移動しました。やってきたのは復刻化粧の8000系でした。
芦屋川駅は六甲山への登山口でもあるのでハイカーの姿もちらほら。もう山を下りてこれから帰られる方でしょうか。
芦屋川駅の片側の道を西へ向かいます。このあたりは昔からの商店街ですが、いくつも新しいお店が出来ていたり、また改装中だったりと活気がありました。
その先に、芦屋ぷりんというこれも新しいお店がありました。瓶のプリンにフルーツが入ったものが並んでいましたが、値段を見た目が瓶のように大きく見開きました。
そうするうちに、芦屋廃寺跡という碑が目に入りました。芦屋でハイジというと、なんといっても洋菓子のハイジ(以前は芦屋駅ビルのモンテメールにありました)なのですが、こんなところに廃寺跡があったとは知りませんでした。
現在の芦屋廃寺跡一帯は完全に住宅街と化しています。調べると、この高台一帯に白鳳時代の大きな寺があったようです。坂を下りたところに寺田遺跡という縄文時代後期から室町時代に連なる遺跡があるなど、早くから人が住み着いたところだということが分かりました。
普通に阪急沿線の街を歩こうと思ったら、一発目にすごいものに出会ってしまいました。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
新沢千塚古墳を後に歩き始めました。先頭は畝傍山を背景として、まだ古墳群の中を歩いています。この写真の中にも大小7基の円墳がありますがわかるでしょうか? 手前に2基、左手に5基こんもりとした円墳があります。
古墳群を後に歩いていると、前方の三輪山にだけ光が当たっている光景が目に入りました。半円錐形の三輪山の形が浮かび上がっています。山自体がご神体の三輪山が一層神々しく見えた一瞬です。
次に益田池の堤跡を訪れました。ここは、平安時代の初期、弘仁14年(823年)に作られた灌漑用の池の後です。池の大きさは40ヘクタール(0.4平方キロメートル)、貯水量は140~180万立方メートルという大きなものだったと推定されています。
ぞの時代、古代の同様の池としてはすでに満濃池や狭山池があり、それらよりは100年ほど後の池ですから、色々と技術的施工が行われていたそうです。
近鉄電車が走る音が聞こえるくらい橿原神宮前駅近くまでやってきて、久米寺へ到着しました。久米寺は、聖徳太子の弟、来米皇子の建立や久米仙人の創建と伝えられています。京都の仁和寺から移されたという美しい多宝塔がありました。
久米仙人、神通力を持って空も飛べる能力があったものの、洗濯をしていた女のふくらはぎに見とれて墜落し力を失ったとも。しかし、その後その女と結婚したらしく、それはそれでめでたしです。
最後に久米寺の鎮守社である久米御懸神社前で休憩。田中先生は、ここから橿原神宮前駅まではケンケンで200歩とか言われましたが、よく歩いたこの日、ケンケンで行く人はいませんでした。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
畝傍山がきれいに見えるところへ来ました。手前にはアヤメが咲いています。新沢千塚古墳群です。一帯は公園として整備されていて、その中を周回することで600基ともいわれる古墳群を見ることが出来ます。
ぽこぽこしているところがすべて古墳です。多くは直径10~30メートルの円墳ですが、中には前方後円墳や方墳もあるそうです。古墳の年代は400~500年代で、多くは竪穴式の埋葬ですが、500年代の後期のものには横穴式のものがあるそうです。
数が多いことからそのすべてが調査されたわけではないようですが、発掘調査された古墳の中からは、ペルシャ、中国、朝鮮半島からの渡来品もあるなどが見つかっており、長期かつ多岐にわたる人たちの古墳が集まっているということが分かります。
神仙境 吉野の謎に迫る 壬申の乱と修験道の誕生 古代吉野を見直す会/読了・・・・・・・・飛鳥から山を越えていった先にある吉野、特に広い平野があるわけでもなく、山と谷に挟まれた吉野が日本の歴史や天皇の行幸など、実に重い位置を占めているのはなぜかという謎を、吉野を愛する人々が現地を訪れるなどしてまとめています。奈良には奈良でしか売っていない(たぶん)本があって、とても貴重ですね。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
住宅街の中にある鳥屋近隣公園でお弁当タイム、そして田中先生による歴史講座です。この日は雨が降らなくて本当に良かったですね。
次に訪れたのは、宣化天皇の身狭桃花鳥坂上陵です。宣化天皇は、継体天皇の第2皇子として生まれ、兄の安閑天皇が崩御したとき、次を継ぐ子がなかったため、なんと69歳で即位したという高齢天皇でした。宣化天皇の娘、石姫皇女が次の欽明天皇に嫁いでおり、それが現在の皇室にも続いています。
宣化天皇陵の南に崇神天皇の皇子、倭彦命墓があります。倭彦命が亡くなった時、その近習が殉死ということで墓の周りに首だけ出して生きながら埋められ、その後凄惨な事態を招いたことから、殉死の廃止とその代わりに墓の周りに埴輪を置く習慣が始まったといわれています。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
今回のコースでの白眉は、なんといっても益田岩船でした。飛鳥を中心として奈良には謎の石造物がたくさんあって、単にその一つくらいと思っていたのですが、とんでもない存在感と大きな謎であることを実感しました。
まずはその大きさです。大きさは東西約11メートル、南北約8メートル、高さ約4.7メートル。重さは約800トンもあるという説もあり、上部には一辺約1.6メートル、深さ約1.2メートルの穴が空けられています。
古墳の石室として加工し始めたものの、色々な不具合が生じたために放棄したという説がありますが、これだけ巨大な石だとそれ自体が神としての信仰を生みそうだし、いまだに謎を孕んだ益田岩船でした。
QRコードからは奈良を代表する方の声で、益田岩船を紹介しています。こういう解説を聴きながら現場で見学できるシステムは本当にありがたいことですね。
次に訪れたのも巨石つながりでした。小谷古墳がある場所は、岡寺駅のまっすぐ西1キロメートルほどの谷あいです。墳丘封土がはがれ、古墳の石室の大きな蓋石が露出していますが、この石の大きさは有名な石舞台古墳の蓋石よりも大きいそうです。
この巨大な石室を持つ古墳は江戸時代には斉明天皇陵とされていましたが、現在は奈良県指定史跡となっています。発掘調査は行われていないとのことで、将来大変な発見があるかもしれません。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
次に訪れたのは、住宅街の中にある公園、そこが中世(ほぼ鎌倉から戦国時代にかけて)このあたり一帯を支配していた越智氏の居城であった見瀬城跡です。小さな碑がその存在を伝えています。公園整備で大層な石垣が作られていますが、本来は土塁、切通しで構成されていたのではないでしょうか。
見瀬城跡からの眺望はとても良く、二上山などともに、この丸山古墳の全景を見ることが出来ました。木々が盛り上がっているのは丸山古墳の後円部で、この左側に前方部があり、全長318メートルの奈良県最大、全国でも6番目の巨大古墳です。日本一の大きな石室を持つ古墳ですが、被葬者を含めてその全容はまだわかっていないようです。
白橿近隣公園の中に久松潜一先生の万葉歌碑がありました。「香具山は畝傍ををしと耳成と・・・・」で有名な大和三山の歌です。大和三山を男女に見立てた歌ですが、それぞれの山が男性なのか、女性なのかという論争は今も続いています。
反歌にある印南国原、兵庫県民としては明石から加古川にかけての稲美(加古郡稲美町)と捉えたいがどうでしょうか。
その白橿近隣公園にあったのが沼山古墳です。石室が正方形で、天井がドーム状になっているなどの特徴から、渡来系の有力者の墓と言われています。この牟佐の里は渡来系の人たちが多く住んでいたところなのです。また、羨道が石室の中央ではなく右端に寄っているのは初めて見ました。
江國滋 阿呆旅行 中公文庫/読了・・・・・毎月どこかへ、著者とカメラマンと付添いの方が2年間にわたり旅行に出かけた旅行記だけど、そもそもは内田百閒の阿房列車に因んだ旅行記であるのは明白。著者は内田百閒の信奉者ですから。さてこの本の読みごたえは、その無駄のない文体、さらりとした上品な運びに魅了されました。また、宮脇俊三の解説、最後にある著者の内田百閒への小文がまたすごい。
春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪で畝傍山の南西に広がる牟佐の里を歩きました。
近鉄岡寺駅⇒牟佐坐神社⇒見瀬城跡⇒沼山古墳⇒益田岩船⇒小谷古墳⇒鳥屋近隣公園⇒鳥坂神社⇒宣化天皇陵⇒倭彦命墓⇒新沢千塚古墳群⇒益田池堤跡⇒久米寺⇒久米御縣神社⇒橿原神宮前駅
5月13日は、一週間前、あるいは2日前の天気予報でも大雨と伝えられましたが、当日の朝はすっきりとした晴れ、しかも前日の雨で黄砂が洗い流され、澄んだ空気に満たされた絶好のハイキング日和となりました。
電車の窓から仰ぎ見る二上山、新緑に覆われて盛り上がっているかのような、まさに山笑うの季節となりました。
集合場所は近鉄吉野線岡寺駅。たまたま改札口で、これは何の集まりですか?と問われた方が急きょ参加されるというハプニングもあり、30名ほどの参加となりました。
岡寺駅に隣接する踏切の脇に、孝元天王軽境原宮址の碑がありました。その先に見える牟佐坐(むさにます)神社がその宮址と言われています。
第8代の孝元天皇(実在には諸説ありますが)は、日本書紀に「都を軽の地に遷す。これを境原宮といふ」とあり、境内がその宮址であるとされています。
その牟佐坐神社へ向かいます。小高い丘の神社、木々に覆われているので周囲の景色を見ることはできません。ひっそりとした神社というところでしょうか。そこに神話時代の天皇家の謂われもあるところが奈良ならではという感じです。
神社の登り口の脇に万葉歌碑がありました。柿本人麻呂の長歌、巻2-207です。妻を亡くしたことを嘆き歌う挽歌の後半部分です。揮毫は昆布富明さんという奈良県弓道連盟の会長だった方のようです。
新聞記事によると、「関西吹奏楽功労者の碑」というものが、5月5日に西宮戎神社の境内に建立され、その除幕式が行われたということが伝えられました。
関西は吹奏楽が盛んな地域で、特に小生若き日の西宮市内では今津中学や我が上甲子園中学の吹奏楽部が、全国的な高いレベルで競い合いあっていました。
ということで過日、その碑を見に行ってきました。大きな花崗岩の碑には、朝比奈隆の名前と「もっと吹け もっと奏でよ もっと楽しめ」とまさにアマチュア精神を鼓舞するかのような力強い言葉が刻み込まれていました。
こことは別ですが、阪急千里線の南千里駅近くにある南千里公園内に、懐かしい3000人の吹奏楽(小生が知っているのは2000人の吹奏楽ですが、その後増えたのでしょうか)にまつわる碑があります。3000人の吹奏楽で得られた善意により、桜並木が植えられたようです。
いつもの生駒での野暮用を終えた5月6日の午後、奈良へ出て昼食をとった後、坂を上って興福寺の境内に入りました。そこには鹿と五重塔という、これこそ奈良という風景がありました。
広い興福寺の境内ですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治の初めには安価で民間に払い下げられそうになったこともあったそうです。
興福寺と言えば、この五重塔です。とても姿の良い塔です。応永33年(1426年)の再建で、光明皇后の発願による天平2年(730年)の創建時からは6代目になります。高さは京都の東寺の五重塔に次いで高い50.1mです。猿沢の池からの眺めはとくに有名です。
興福寺の東金堂です。応永22年(1415年)の再建で、これも6代目。応永18年(1411年)に五重塔とともに焼失したため、その後の再建となりました。唐招提寺金堂の様式を参考にしたそうで、その面影はありますね。
ここには本尊の薬師三尊像(重要文化財)のほか、国宝指定の四天王像や十二神将像など、飽きることのない見事な諸仏が並んでいます。
この新しいお堂は2018年に再建された中金堂です。区画が区切られ、写真が撮りにくいのは残念ですが、柵の位置が元々の回廊跡になります。壮麗な建物の中には釈迦如来坐像を中心に脇侍、四天王造が並びます。
加藤佳一 シニアバス旅のすすめ 定番コースからワンランク上の大人旅 交通新聞社新書/読了・・・・・・最近市内のバスに乗って、市内とはいえ、道の訪問となる場所へ何回か行った見たことがあるので、この本も大変興味深く読みました。表紙に路線バスの写真があるので、路線バスの話題が中心かと思ったら、長距離路線バスもあり、多岐にわたったバスの話題が満たされていました。いろいろと書いてあるのですが、知らない土地のこともあり、どこを走っていたのかが分かる地図があれば良かったですね。地名も方向もわからない場所は想像しようもないことですから。
いつもの生駒の野暮用があった5月6日、昼から奈良国立博物館へ。「聖徳太子と法隆寺」展を見た後、同じエリアではありますが、地下通路を通って仏像館へ行きました。
仏像館は、もともとの国立博物館、明治27年に完成した帝国奈良博物館本館です。2010年になら仏像館として再スタート、2016年に大きくリニューアルして現在に至っています。
実は現在、なら仏像館に吉野の金峯山寺から金剛力士立像2体がやってきています。これは金峯山寺の仁王門の修理に伴ってやってきたもので、修理が完了する令和10年度まで、なら仏像館でその偉容を披露することになります。写真は金峯山寺の仁王門。
やってきている金剛力士像です。木造、阿形505.8cm 吽形506.02cm、南北朝時代 延元4年(1339年) 康成の作です。この2体だけが撮影可能です。とにかくすごい迫力です。
「撮影可能です」という立て看板が像の前にあったので、ちょいとどけてもらって撮影しました。そこんとこ、もうちょっと配慮があってもええんちゃう?とか思いましたけど。
金剛力士像の解説、読んで理解すると、さらにその力感あふれる損沿いに圧倒されます。まだまだ長い期間ここに鎮座するようですが、何回見ても感動が伝わるのではないでしょうか。小生も実は2回目の邂逅となったこの日のことでした。
GWも終わった5月6日、いつもの生駒での野暮用を終えて、昼から奈良へ出て奈良公園をプラプラ。奈良国立博物館で開かれている「聖徳太子と法隆寺」展を見に行くこととしました。
今年が聖徳太子が推古天皇29年(621年、日本書記記載による、一説には推古天皇30年没)に亡くなって1400年となる遠忌ということで、それを記念して特別展が開かれています。
奈良国立博物館へ来ました。ここへきて、GWの連休明けでひょっとして休み明けで休館していたらどうしようと危惧しましたが、無事に入館することが出来ました。
奈良公園を歩く人はまばらでしたが、館内はそこそこの入館者でした。とはいうものの、かつての正倉院展のような混雑とは全然違うくらいでゆっくりと見学できました。
展示品は撮影できないので、パンフレットの中を紹介します。聖徳太子坐像、薬師如来坐像、旧1万円札の聖徳太子像、玉虫厨子、観音菩薩立像、四天王立像、羅漢坐像、などなど。見どころ満載の「聖徳太子と法隆寺」展でした。6月20日まで、月曜日休館です。
緊急時代宣言が発令された4月25日、本当に有用有急の件の為、JR六甲道まで電車移動し阪急六甲へ向かいました。そして用事を終えて再びJR六甲道へ戻ってきました。
JR六甲道駅は1995年1月17日の阪神淡路大震災で駅がその付近の高架とともに崩落し、完全に破壊されたところです。その後の復興で現在はとてもきれいな街の空間を備えています。
その一角に煮干しラーメンのお店がありました。「私の血液にはワインが流れている」と言った女優がいましたが、煮干し中毒、まさに体内に煮干しの出汁が流れていると豪語するかのような友人がいますが、ここもチェックしているのかなぁ。お店の名前も 弐星⇒にぼし とは。
新しいお肉屋さんがありました。芦屋、住吉にも店舗があって、そちらは時々利用するのですが、こちら六甲道のお店は最近オープンしたところです。牧場の直営で、とてもよい品質のものが安価で購入できます。この日はイタリア産の生ハムとコロッケを買って帰りました。
ニード牧場 ⇒ ★
六甲道で忘れてはならないのが、駅の北側の商店街の入り口にあるトミーズです。あんこを練り込んだ食パンあん食は定番の商品です。あん食一本は我が家には大きすぎるので、小振りのアンパンなどを買って帰りました。ここの街歩きは面白いですよ。
寺井広樹 廃線寸前!銚子電鉄 極赤貧 赤字鉄道の底力 交通新聞社新書/読了・・・・・・・経営危機を何度も乗り越え、現在もかろうじて走り続けている地方鉄道というのはたくさんありますが、その中で最も頑張っている私鉄の一つ、銚子電鉄の内幕を面白く綴った一冊。当人たちは面白くもないだろうけど、そこを知恵を絞りだし、ピンチをチャンスに切り替えていく姿がいいですね。関西からは遠いところ、東京まで行っても、そこからでもまだまだ遠いところですから、なかなか訪れる機会もなかったですが、地方私鉄の一つの縮図として読みました。
緊急時代宣言が発令された4月25日、本当に有用有急の件の為、JR六甲道まで電車移動し阪急六甲へ向かいました。阪急六甲の踏切からの一枚。とりあえずのついで撮りですが、久しぶりの電車撮影でした。
JR六甲道駅から歩いて坂を上っていくと、阪急六甲駅の手前に大きな森があります。ここが六甲八幡神社です。長い参道は新緑のトンネルと化しています。とてもすがすがしい気分で通り抜けました。こういう場所は気分を高め、免疫力アップに良いのではないでしょうか。
長い参道を通り、階段を上がったところに拝殿、そして本殿があります。この本殿は、天明6年(1786年)に領主の石河氏の寄付によって、奈良県の春日大社の旧社殿を移した「春日移し」によるものと考えられています。小振りながらとても気品を備えた立派な本殿です。
春日移しとは、奈良の春日大社の20年に一度の式年造替(伊勢神宮でも同様の式年遷宮がありますね)において建て替えられた旧社殿を近隣や関係の深い神社に下賜し、移築していた習わしのことで、そういった旧社殿の分布としては最も西に位置するのがこの六甲八幡神社ということです。ありがたいことです。
本郷和人 戦国武将の選択 産経NF文庫/読了・・・・・・・・・歴史学者である著者による醒めた戦国武将観でしょうか。小説として物語の中で語られてきた、あたかもそうだったんじゃないだろうかと言われていることを冷静に検証し否定していく展開が面白いです。曰く、桶狭間で今川義元を破った織田信長の軍勢が2000騎であるはずがない、天下統一という意識はもともとなかった、本能寺の変の真実は、利休が追い詰められた原因、などなど。新しい視点での戦国時代を見ることが出来ました。
さらに素戔嗚神社を探すご近所散歩が続きます。とはいうものの過去画像で失礼しますが、これは水堂須佐男神社です。水堂古墳の上に築かれた神社で、古墳の埋葬施設は建物内に収められ、いつでも見学できるようになっています。
武庫川を下ったところにある西素戔嗚神社です。デザイナーをしている同窓生が毎年絵馬を描いて奉納しているのでおなじみの神社です。武庫川の土手からすぐのところで、桜の名所でもあります。
このように尼崎市内には素戔嗚神社が数多くあり、一説には25社もあるとか。では、なぜこんなに素戔嗚神社が多くあるのでしょうか。
これらの素戔嗚神社の多くは、実は江戸時代は牛頭天王社であったようです。牛頭天王は京都の八坂神社から勧請される神社で、特に疫病退散に霊験あらたかとされています。しかも神社の成り立ちを調べていくとどうも江戸時代初期にそのルーツを求められそうです。地域にもともとあった信仰の対象も、一時の流行でみんな牛頭天王社になって行ったのではないでしょうか。
それが素戔嗚神社になったのは、どうも明治時代に入ってからのようです。懐かしい東映アニメのポスターを出してみました。これも一斉に名前を変えている様子が見えますので、一時の流行で一斉に右へ倣えとなったのではないでしょうか。実は牛頭天王は素戔嗚と近い間柄、神仏習合では本地(姿を変えた神)にあたるので、神道を崇めた明治政府に沿った行動だったのではないでしょうか、知らんけど。
尼崎市神社案内はこちらから ⇒ ★
バスに乗って武庫川沿いにある素戔嗚神社を巡るご近所散歩、昨日の西昆陽須佐男神社から歩いて南下していると、こんな火の見やぐらを見かけました。こういうの、今もところどころにありますね。もちろん火の見やぐらの役割はないでしょうが、地域への防災放送に使われたりしています。
川を横切るときに水面を見ると多くの鯉が群れていました。水質がある程度改善されて、鯉を見かけることも多くなりました。ただ、鯉はそれほどきれいじゃない河川でも生息しますから、それほどのことでもないのですけれど。
その鯉の群れに中に、少し形の違う魚を見つけました。ニゴイです。少し長い顔、はっきりとした網目の鱗、小さな背びれが特徴で、鯉よりも少しきれいな水質を好むので、ここはそこそこましな環境なのでしょう。
歩くうちに、⇒須佐男神社の案内を見つけ、そちらのほうへ行くと常吉須佐男神社がありました。元々もっと西の武庫川のたもとにあった神社ですが、そのあたりに大規模団地が建設されることになり、ここへ移ってきたという近代の住宅事情が絡んだ神社です。
境内はきれいに整備されていて、多くの花もあり、ご近所にとっては憩いの場所となっていることでしょう。地域の心の拠りどころとして、こういう神社は大切な存在ですね。
帰る道で地酒倶楽(じざけぐら)というお店を見つけました。全国の地酒を集めておられる酒販店で、好みの地酒もいくつかありました。特に風の森の秋津穂が売られていたのはうれしい発見でした。歩いているとこういう出会いがあるものですね。
バスに乗って終点まで行くご近所の旅、先日の金井町行きの次は宮ノ北団地行きのバスに乗りました。それはどこやねん?と思ったら、市内でもずいぶん北のほうらしいです。
到着したところは大きな団地で、昭和の時代に建築された建物が順番に改築され、新しい団地として生まれ変わろうとしている、そんなところでした。緑陰に緑の阪神バスが映えています。
団地にある給水塔です。昔の団地には、このような高い位置に高架水槽がある風景がおなじみでしたね。今では受水槽から圧送する方式が多く採用されているので、このような水槽を見かけることも少なくなりました。
その団地の南隣にこんもりとした森があり、中をのぞいてみると西昆陽須佐男神社がありました。神社の創建は12世紀ころと言われており、それなりの歴史がありましたが、平成7年の阪神大震災で建物が倒壊し、翌平成8年10月に再建されたとのことです。ここに神社があるから、団地の名前が宮ノ北なのかどうかはわかりません。
山本一力 辰巳八景 朝日文庫/読了・・・・・・江戸の下町、永代橋、門前仲町、木場、佃町、洲崎などを背景として、元禄16年(1703年)から天保6年(1835年)へと時間をずらせて八編の小説が綴られています。登場人物に劇的な時代を背負った事件が起こるわけでもなく、日常が描かれています。こういう穏やかな時代小説、待ってました。
伊丹市から武庫川にかかる大きな橋を渡って宝塚市へ入りました。真正面は宝塚から池田方面へつながる北摂の山々、左のほうは六甲山につながる山々です。武庫川はその間を流れて阪神間の平野へ到達します。
橋を渡るとその前に大きなこんもりとした甲山が見えてきます。昔はコニーデ型の火山の典型的な例として紹介されていましたが、その後は否定されましたね。とにかく遠足で登らされたしんどい想い出があります。
そんな風景を見ながら歩いていると、高司の住宅街の中に森があり、その方向へ向かうと蔵人素戔嗚神社がありました。
創建時期は不詳で、武庫川の氾濫で甚大な被害を受けていた村人が、荒ぶる武庫川を鎮めるため祀ったといわれています。
コンクリート製の拝殿があり、その奥には兵庫県指定の重要有形文化財の本殿があり、それは江戸時代初期のものとされています。本殿は確認できませんでしたが、これは村のお宝ですね。
これはまだコロナのまん延防止対策期間のこと、なるべく人との接触を少なくして、それでも散歩ができるようにと、とりあえずバスでどこかへ行こうと、やってきたバスに乗ってみました。行き先は金井町とあります。どこなんやろう?そんな感じで出発してしまいました。
着いたのは、尼宝線の伊丹市から宝塚市へ入ったところ、金井町の交差点近くのバス停でした。その交差点には長崎ちゃんめんというお店がありました。ちゃんめん?ちゃんぽんではなく、ちゃんめんとは。調べると歴史もあるようですが、まあ、それほど興味ないし。
金井町の交差点から西へ歩いていくと、西野素戔嗚神社がありました。この神社はもともと西野村の南東部にあったのが江戸時代の文政年間(1818-1831)に移設されたとの記録があり、古くは正徳6年(1716)の道標が境内にあるそうです。いずれにしても、村の大切な神社としての歴史が刻まれています。
近代に入り、昭和39年に社殿が作られたものの、雨漏りなどの老朽化が目立ち、平成4年に現在の社殿が作られたとのこと。阪神大震災の前に新築されていてよかったですね。
甲子園口駅の東側に新堀川という川が流れています。その道沿いにこの季節、ツツジが満開を迎えていました。ということで、4月27日に散歩がてら、その様子を歩いて見に行ってきました。
川沿いにある松山大学の温山記念会館の前もツツジの花で埋まっていました。スペイン風の建物とのマッチングです。
このツツジの道は500mほどでしょうか。東側には車の通行を制限した道があり、そちらは安心して歩くことが出来ます。
ツツジの道はJR線のあたりまで続きます。線路の下をトンネルが通じていますが、これは避溢橋(ひいつきょう)といい、近くの武庫川が氾濫したときにJR線の土手で水が止まらないよう、その水を排水する目的で作られたものです。
その武庫川を渡って帰途につきました。武庫川は過去に何回も洪水を起こした歴史があり、各所にその歴史が残っています。今度はそういった歴史について紹介していきましょう。
JR線の向こうに労災病院の大きな建物が見えますが、その病院のはるか遠くの右側に葛城山、金剛山が、左にはアベノハルカスとその向こうに二上山が見えます。
4月21日は、奈良から大阪への街道でもある暗峠越えをしました。その道沿いには春らしくさまざまな花が咲いて、急坂を上る我々を癒してくれました。旧家の門の脇に今を盛りと盛り上がっているのはモッコウバラです。
最初に訪れた応願寺の境内にあった花、最初はコデマリかなんかだろうと思っていたのですが、写真をよく見ると葉や茎の様子からアジサイのようです。いや、コデマリかな?オオデマリ?
道端にまとまって咲いていたのは、アヤメかショウブか、カキツバタか。その違いは以下のようなものなのですが、ここは庭先の花壇なので湿地ではありませんでした。したがって、アヤメなのでしょうか?
【アヤメ】花弁の根元が白と黄色、網目模様がある ⇒ 草原や乾燥地に育つ
【ハナショウブ】花弁の根元が白と黄色、模様なし ⇒ 湿地や湿原に育つ
【カキツバタ】花弁の根元が白一色で模様なし ⇒ 湿地や湿原に育つ
暗峠を越えて急な下り坂を降りていきます。その途中に、やや遅めになるでしょうか、八重桜が満開となっていました。奈良にはナラノヤエザクラという奈良市の花になっている品種がありますが、それとは違う、まぁ普通の八重桜でした。でも、きれいでしたよ。
大坂側の坂をずいぶん降りてきたところですが、谷あいにアオモミジが水面に映えていました。初夏を感じさせる目にも爽やかな色合いが印象的でした。
暗峠越えは急坂の連続でしたが、春めく季節を彩る花々や木々の緑にあふれた素敵な街道でした。
上田秀人 本懐 武士の覚悟 光文社時代小説文庫/読了・・・・・・武士がけじめをつけるときに、切腹という行為でその結末を閉じるということ、それがその人の人生、そしてその後の子孫にどう反映していくかという、かなり重い主題を何とも軽々と読ませる一冊。重厚な主題なのですが、実に読ませる本でした。上田秀人は初めて読みましたが、時代小説を多く手掛けている作家なのですね。まだまだ手を付けていない作家や作品があるようです。
4月21日は、春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の下見に同行させていただき、奈良から大阪へ至る暗峠越えを歩いてきました。
近鉄生駒線南生駒駅⇒応願寺⇒石仏寺⇒阿弥陀石仏⇒万葉歌碑⇒暗峠⇒上の山地蔵石仏⇒弘法の水⇒芭蕉句碑⇒枚岡神社⇒近鉄枚岡駅
大坂側に暗峠を下りてきて、開けた景色が見えてきました。奈良側の穏やかな風景とは異なり、東大阪から大阪市内の家々、梅田から難波あたりへのビル群、左側⇒南のほうには阿倍野ハルカスも見えています。
降りてきた道を振り返ると、ようこんな道を降りてきたなぁと感心してしまいました。実は大阪側を降り始めて、そのあまりの急角度のため、下る道の写真を撮る余裕もなく降りてきた次第です。
山を下って、枚岡神社に到着しました。中臣氏の氏神、その後藤原氏が氏神として春日大社を創建した際に勧請され、元春日と言われた由緒ある神社で、中世以降は河内の国の一宮として親しまれています。上の写真は少し見にくいですが、研修中の巫女さんたちが大勢通り過ぎていきました。
歴史探訪の下見にお誘いいただいた田中先生とかぎろひさんとは近鉄枚岡駅でお別れです。いつもなら、これから反省会なのですが、小生の所要の為、お付き合いできませんでした。本日、5月4日は、この暗峠越えの本番となります。皆さん、お気をつけて行ってらっしゃい。
4月21日は、春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の下見に同行させていただき、奈良から大阪へ至る暗峠越えを歩いてきました。
近鉄生駒線南生駒駅⇒応願寺⇒石仏寺⇒阿弥陀石仏⇒万葉歌碑⇒暗峠⇒上の山地蔵石仏⇒弘法の水⇒芭蕉句碑⇒枚岡神社⇒近鉄枚岡駅
奈良側から暗峠を越えて大阪側へ降りてきました。この道は、最大斜度37度とも言われ、日本で一番の急坂の国道です。世界的に見ても、ニュージーランドの南島にあるダニーデンの坂が35度?が世界一とも言われているので、正確にはわかりませんが、ひょっとすると世界一の急坂かもしれません。
そんな坂の途中に弘法の水があります。山からの湧水ですが、そこは急坂を上ってきた人たちの休息の場所になったのか、笠塔婆がいくつもおかれ、旅人の安全を見守っています。
豊浦橋の近くにある道標にようやく近鉄の駅の名前も出てきました。こういうきれいな道標は奈良側には見られませんでした。暗峠越えをハイキングとして楽しみとする人も多いので、奈良側にも丁寧な案内がほしいところです。
さらに下り、少し開けた場所に松尾芭蕉の句碑がありました。「菊の香に くらがり登る 節句かな」
この年、元禄7年(1694年)6月、芭蕉は切実な間柄であった寿貞尼を亡くし、失望のうちに伊賀での盆供養を終え、大坂へ出発。奈良からこの暗峠を越えて大坂へ入ります。奈良で読んだ「菊の香や 奈良には古き 仏たち」、大坂での「この道を ゆく人なしに 秋の暮れ」から最後の句、10月8日の「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」へと続き、12日に亡くなります。
この句碑は、元々あった江戸時代の句碑が山津波で行方不明となり、明治になって作られたものです。その後大正時代に元の句碑が見つかり、今はここより更に下ったところの勧成院というお寺に建てられています。
もうずいぶん下ってきました。最終地点まではもう一息ですね。
下川裕治 5万4千円でアジア大横断 朝日文庫/読了・・・・・・いつもながら無茶な旅を続ける著者(本人はやりたくもないとのことらしいですが)が、東京を起点とするアジア・ハイウェイと呼ばれる全長2万キロを超える道路をバスで移動するという旅の記録です。北朝鮮やビルマは政情不安で抜けられないのですが、その他の国では、過酷なバス旅をつづけています。中には、快適な高級バスでの移動もありますが、過密で悪路を走る長距離バスもあり、すべてを含めてアジアというものが見えてきます。
4月21日は、春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の下見に同行させていただき、奈良から大阪へ至る暗峠越えを歩いてきました。
近鉄生駒線南生駒駅⇒応願寺⇒石仏寺⇒阿弥陀石仏⇒万葉歌碑⇒暗峠⇒上の山地蔵石仏⇒弘法の水⇒芭蕉句碑⇒枚岡神社⇒近鉄枚岡駅
峠へ向かう道を下からバスがやってきて、追い抜かれました。一日に4本運転される生駒市コミュニティバスのたけまる号(南生駒駅から平日のみ運転)です。バスと言ってもバンですから定員が決まっていて、一定以上の人は乗せられないようです。
そして、とうとう峠に差し掛かりました。普通乗用車がようやく通ることができるくらいの細い道です。ときおり、自動車が行き来しています。古くからの街道、ここは今も奈良と大阪を結ぶ道として現役です。
峠には石畳が敷かれています。全国の国道で石畳があるのは、この暗峠だけです。参勤交代で殿様が滑らないようにということで敷かれたそうです。大阪方面から登ってきたライダーのお姉さんたちが記念写真を撮っていました。
峠の細道を少し入ると、小さな地蔵堂があり、ここにも大き目の地蔵がありました。天井が地蔵に迫っているのは、地蔵堂を建てた後に錫杖の上の部分が見つかって継ぎ足したからだそうです。
4月21日は、春の奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の下見に同行させていただき、奈良から大阪へ至る暗峠越えを歩いてきました。
近鉄生駒線南生駒駅⇒応願寺⇒石仏寺⇒阿弥陀石仏⇒万葉歌碑⇒暗峠⇒上の山地蔵石仏⇒弘法の水⇒芭蕉句碑⇒枚岡神社⇒近鉄枚岡駅
南生駒駅を出発し、坂を上って暗峠を目指します。歩くうちに勾配も急になってきて谷も狭くなってきました。そうした谷には、きれいに整備された棚田が設けられています。日本の道100選の暗峠を代表する風景です。
棚田が広がる風景の中に、犬養孝先生が揮毫された万葉歌碑がありました。関東の下野国から西国へ送られる防人の歌が刻まれていました。
「難波津を 漕ぎ出で見れば 神さぶる 生駒高嶺に 雲ぞたなびく」巻20-4380
万葉歌碑の背後を分け入ると、積まれていた石の中に行者さんを掘り込んだものを見つけました。生駒から連なる山は、昔から修験道の鍛錬の場として有名なところです。古から修業をする人々が行きかったであろう暗峠のひとコマが垣間見えました。
棚田の上のほうまで登ると、いよいよ視界は開けてきます。矢田丘陵の向こうに奈良市街地、そして若草山まで眺めることができるようになりました。
上を見ると、谷間が開けてきました。峠まではもう少し、、、、なのでしょうか、とにかく期待して登り続けましょう。
福原俊一 新幹線100系物語 ちくま新書/読了・・・・・・新幹線0系の跡を継いだ100系新幹線誕生秘話というところでしょうか。初めて2階建て車両を導入し、シンデレラ・エキスプレスとしてJR発足後の新鮮なイメージとなりました。2階建て車両を4両もつないだ豪華なグランドひかりも印象的でした。そんな開発にちなむ話が満載でした。
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