枚方の百済寺跡を訪ねる 2/1
2月1日は、奈良歩き、かぎろひ歴史探訪の方々を奈良以外のところへ案内する番外編の下見に枚方を訪れました。まず向かったのは、百済からやってきた王族が移り住んだという百済寺跡です。建物の柱位置が分かるような整備が行われています。
百済寺は、天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたと言われています。
百済寺は、南門から入ったところに回廊に囲まれた堂塔院があり、その中に東塔、西塔、さらに金堂があるという配置になっていました。また、その後方に講堂、食堂などの僧院、さらに広い敷地の中に複数の建物があったということが発掘調査で明らかになっています。
百済最後の国王・義慈王は倭国と同盟し、その王子豊璋と善光を人質として倭国に献上しました。しかし、百済王室は660年、唐の進攻によって滅び、百済復興のため、倭国から朝鮮半島に戻った豊璋も白村江の戦いに敗れ、唐に捕らえられました。その結果、日本に残った善光が百済王族の血統を伝えることとなりました。
堂塔院の中の様子をパノラマ撮影しました。基壇が復元された東塔と、当時のままの様子がうかがえる西塔の基壇が見えています。その中間に金堂の基壇が見えます。とても広い敷地で、甲子園球場のグラウンドがすっぽり入るくらいの広さがあります。
西塔の基壇には当時の礎石がそのまま残されています。黒ずんだ色合いが歴史を感じさせますね。中心の塔の心礎石はひときわ大きな石が埋められています。
二つの塔の基壇の上には三重の塔があったと推測されています。奈良の当麻寺の三重塔の写真が透明なアクリル板に貼られていて、見方によっては基壇の上に建っているようです。少しだけ当時の雰囲気が味わえました。
豊田有恒 ヤマトタケルの謎 英雄伝説に隠された真実 祥伝社新書/読了・・・・・・・・SF作家として多くの著作がある著者は、島根県立大学での教授経験もあり、日本の古代史に関する作品も多くあるようです。この一冊も、神話として語り伝えられるヤマトタケルの実在性について論証するとともに、今も讃えられる英雄伝説へ言及しています。数奇な生涯がなぜ伝説となったのか、その中から古代日本の姿も垣間見えてきます。
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