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2024年7月 3日 (水)

私の写真展「鉄道万葉集」その2から

今から1300年前、万葉の時代の旅は徒歩でした。その道はできるだけ勾配も緩く、そしてまっすぐに延びる古代の道でした。

鉄道の黎明期、線路を敷いた路線もなるべく緩い勾配とまっすぐなルートを選んだため、万葉の時代と重なる風景が今に伝えられています。

そんな風景の中にみる「鉄道万葉集」を追いかけてみました。

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須磨 (すま) ロープウェイ須磨浦公園山上駅展望台

須磨人の 海辺常去らず 焼く塩の 辛き恋をも 吾はするかも 平群郎女 巻17-3932

(須磨の海人(あま)がいつも海辺に焼く塩の如き、辛い恋をも私はすることです)

須磨を詠んだ万葉歌は3首だけですが、いずれも「塩」つくりに関わりのある歌です。

歌に出てくる「塩焼き」は「藻塩焼き」と言われ、ホンダワラやアマモなどの海藻に海水を注いで干したものを焼いて水に溶かし、その上澄みを煮詰めて塩を作ったとのことです。

須磨浦山上遊園へは山陽電車須磨浦公園駅からロープウェイ、そして日本一乗り心地が悪いといわれるカーレーターに乗っていきました。

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射行相(いきあい) の坂 近鉄大阪線 大和川橋梁 玉手山3号墳

い行き逢ひの 坂の麓に 咲きををる 桜の花を 見せむ児もがも 高橋虫麻呂歌集 巻9-1752

(竜田にある行きあいの国境の坂の麓に、咲きあふれている桜の花を見せるような子がほしいな)

難波から大和川沿いに飛鳥へ向かう道として龍田道、渋河道があり、大和川の北側にある低山を越える射行相の坂は今も残っています。

撮影場所の玉手山3号墳は、3世紀後半の築造、古墳時代最初期の前方後円墳です。この古墳の大きさは墳丘長110mと推定されています。

玉手山3号墳は別名「勝負山古墳」といわれ、大坂夏の陣で伊達正宗らの徳川軍がこのあたりで後藤又兵衛を打ち破ったことに由来しています。

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島熊山(しまくまやま) 大阪モノレール小路駅から東方を望む

玉かつま 島熊山の 夕暮れに ひとりか君が 山道越ゆらむ   作者未詳 巻12-3193

(島熊山の夕暮れ時に、一人さびしく、あの方はその山道を越えておられるのであろうか)

千里を詠んだ歌の中でも最も古いとされる一首。

撮影地近くの豊中不動尊には、歌人の安田青風の揮毫による万葉歌碑が建立されています。

島熊山を一望できるところを探していましたが、大阪モノレールの小路駅にやってくると、モノレールの線路の向こうに島熊山が一望できました。

ひとりさびしく超えた山道は、今ではモノレールだけでなく、無数の車が行きかう車道と化していました。

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植松三十里 梅と水仙 PHP文芸文庫/読了・・・・・・何ともタイミングの良いことか、本日発行の新紙幣の5000円札にその肖像が採用された津田梅子の生誕から、いよいよ後の津田塾大学の創設を決意するまでの前半生を、父親の津田仙との葛藤を中心に描いています。幕臣であった父親の仙も頑張っていますが、6歳で渡米して11年間を彼の地で過ごした津田梅子の心の葛藤もすさまじいものがあったようです。とても心にしみる一冊、さすがの植松三十里でした。

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