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2025年2月14日 (金)

天下茶屋歩き 阿倍野神社とは 01/30

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1月30日は、天下茶屋あたりにいて、さてウロウロしようかと思って地図をググると、阿倍野神社というのがあるという。

では、そちらへ向かうこととし、紀州街道を南下、阿倍野神社の参道に当たるところで曲がり、東進しました。

曲がったところに阪堺電車の阪堺線、恵美須町から出ている路線の踏切があり、30分ヘッドと本数が少ない割には上下でやってきたので撮影です。

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701形に続いて、501形が通過しました。501形は1957年に、当時の大阪市電の3001形に準じたボディで登場しました。

人間でいうと68歳、もうすでに十分高齢者、高齢車なので貴重な存在です。

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さて、元別格官幣社とする阿倍野神社の前まで来ました。

この辺りは、大阪城あたりから続く上町台地の南の端に当たり、境内へ向かうには、坂か階段を登らなければなりません。

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実は、阿倍野神社は古社ではなく、明治時代になって、延元3年(1338年)に北畠顕家が石津の戦いで高師直に敗れて亡くなった当地に、顕家を顕彰するために神社を建てたわけです。

北畠顕家は、南朝方について戦った武将ですが、今の天皇家は北朝系。ところが謎で、実は南朝方が尊重されているとか、ようわかりせん。

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北畠顕家は後醍醐天皇の信任厚い北畠親房の子として若くして異例の出世を果たし、建武の新政では陸奥の国に出向いています。

その後、足利尊氏との戦いでは楠木正成や新田義貞と協力してこれを打ち破り、九州へと追いやりました。

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その後、勢いを盛り返した足利尊氏が各地で戦線を開いたのち、顕家は石津の戦いで敗れ、討ち取られて戦死しました。享年21(満20歳)とは若い。

阿倍野神社の東方には、北畠顕家の墓所とされる場所があり、今は公園の一部となっています。

これらの故事に因んで、この辺りが北畠という地名になりました。

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